スポーツのスーパースター評価は、結局は世代の記憶に左右される。レブロンかジョーダンか、メッシかマラドーナかという論争は、その典型だ。両者を10代から見てきた筆者の感覚では、マラドーナは最初から怪物だったのに対し、メッシは成長の過程でメッシになっていった選手だった。
史上最高論争はさらに広がり、ペレを頂点とする見方もある。かつて酒席で出会ったソクラテスは「ペレこそ唯一の史上最高」と断言した。だが筆者にとっての史上最高は、ペレでもマラドーナでもメッシでもなく、ヨハン・クライフである。
さて、何がいいたかったかというと、大谷翔平の特殊性である。
スポーツにおけるスーパースターとは、世代によって、あるいは所属する文化圏によって顔ぶれが異なることが珍しくないということは、おわかりいただけたと思う。もちろん主観や好き嫌いはあるにせよ、個人的にはどちらかに一方的に与することもしたくはないと思っている。
大谷翔平だけは、違う。
近年、韓国のメディアやネットで「日本には大谷がいるかもしれないが、我々にはソン・フンミンがいる」といった声を見かけることがある。韓国にとって、ソン・フンミンは史上最高のサッカー選手であり、国民的英雄。それはよくわかる。大谷と同列に並べたい気持ちをわかる。ただ、ソン・フンミンはあくまでも韓国史上最高の選手であって、ペレやマラドーナ、クライフとは比較にもならない“単なる凄い選手”でしかない。
わたしにとって、78年W杯得点王のマリオ・ケンペスは特別な存在だが、いまや名前を聞くことも少なくなった。W杯得点王にしてMVPの選手でさえ、こうなのだ。たった一度、プレミア・リーグの得点王をとっただけで、全世界が名前と存在を歴史に刻んでくれると考えるのは、いささかナイーブかつ盲目的すぎる。
大谷翔平は違う。
書いていて自分でも信じられない気持ちになるが、彼の名前は、間違いなくアーロッ・ジャッジよりも長く、そして強く記憶される。理由はもう、いうまでもない。ジャッジが特別なスーパースターだとしたら、大谷翔平は野球というスポーツ史上ひょっとしたら初めて、神に近い領域にまで足を踏み入れた存在だから、である。
ご存じの通り、大谷と唯一比較しうる存在として名前があがるのがベーブ・ルースだが、彼のやっていたベースボールが、21世紀のそれとはずいぶんと違ったスポーツであることは、体型や走り方から明らかである。もちろん、その時代にはその時代にしかなかった難しさや壁はあっただろう。彼らの時代には、速球に慣れるためのマシンもなければ、相手が何を投げてくるかを予測する材料となるデータもなかった。来た球を打つ。あるいは初対決の打者を打ち取るという能力に関しては、現代のアスリートたちを上回っていた可能性もある。
だが、ルースたちの時代には160キロを超えるファストボールが当たり前だったとは考えにくいし、変化球のキレや質、何より多様さでは正直、比較にもなるまい。さらにいうなら、彼が二刀流としてプレーしたのは実質的に1シーズンだけで、あとは投手、打者、いずれかに専念してプレーしていた。投手としても一級品だったという記述もある反面、彼が超一流として評価されているのはあくまでも打者として、ホームランバッターとして、である。

つまり、大谷翔平には、実質的な比較対象がない。レブロン対ジョーダン、メッシ対マラドーナといった論争自体が成立しにくい。わたしの知る限り、すべてのメジャースポーツにおいて、これほどの高見にまで駆け登ったアスリートはいなかった。
一人も、いなかった。
未来のことは誰にもわからない。ペレの引退時、「二度とあんな選手は出てこない」と嘆く評論家は多かったが、ほぼ時を同じくして現れたのがマラドーナだった。大谷が二刀流というスタイルを「不可能」ではなく「実現可能」に変えたことで、今後、投打両面で大谷に迫る存在が現れてこないとも限らない。
ただ、それが日本人であるかどうかはわからない。
つまり、数年後が十数年後か、日本人は大谷のいない、神のいない野球界と向き合うことになる。
大谷ほどには神でないペレが引退した後、ブラジルは長い低迷期に陥った。クライフの去ったオランダも、マラドーナを失ったアルゼンチンも、偉大なカリスマを懐かしむ暗黒期を余儀なくされた。
同じようなことが、いや、そんなものとは比べ物にならないぐらいの喪失感が、日本を覆い尽くすかもしれない。
今年も、大谷には暴れ回ってもらいたいし、きっと、暴れ回ってくれるものだとも思う。WBCの連覇、ワールドシリーズの3連覇もなんとか達成してもらいたい。それは大前提。しかし、いずれ来る“ポスト大谷”の時代を考えると、大谷に引っ張ってもらう日本野球ではなく、せめて大谷とともに支える日本野球になってほしい、なっていかなければ、とも同時に考えるようになった。
偉大な選手が現役を去るとき、わたしが感じてきたのは純粋に寂しさ、だけだった。だが、大谷のいない野球界、特に日本野球界を想像すると、みぞおちのあたりに冷たいものが走る。不謹慎極まりないとは承知しながら、イエス・キリストを見送ろうとした人々って、こんな気持ちだったのかな、と想像するわたしである。
【文章】金子達仁
【写真】田中雄二