日米通算4367安打、今アメリカの野球殿堂に最も近い日本人選手として称される稀代の名プレイヤー、イチローさんは私にとってヒーローのような存在だ。だからこそ、イチローさんの現役引退の報を聞いた時に感じた喪失感は相当なものだった。 アメリカを席巻したイチローさんとはどんな存在だったのか。そして、彼のライフスタイルこそが、今の私たちの自粛生活を豊かしてくれる鍵となるかもしれない。 まずは、イチローさんがアメリカでいかに受け入れられたのか、MLBデビュー当時からファンとして彼を観続けてきた私の経験を交えて伝えよう。 イチローさんのプレーはアメリカでも大きく報じられており、アメリカでのファンも多かったという印象があるのではないだろうか。この話は正しくもあり、また間違っているとも言える。イチローさんが、MLBデビュー時点からアメリカの野球ファンの間でも大人気だったかと言われると、実はそうでもなかったと言うのが私の印象だ。 私は、大谷翔平選手が所属するロサンゼルス・エンゼルスの本拠地にほど近い場所に住んでいるが、確かに当時の在米日本人の間では、地元であるはずロサンゼルス・エンゼルスよりもイチローさんが所属するシアトル・マリナーズを応援する人が非常に多かった。しかし、地元のファンは別だ。 ※デビュー初年度のイチローさん。2001年アナハイムで撮影 MLBを始め、アメリカのプロスポーツチームは地元に愛されるチーム作りの文化が根付いている。だから、純粋に地元チームの勝利を観たいと言う人が多い。もっとも、ニューヨーク・ヤンキースや、ロサンゼルス・ドジャース、ボストン・レッドソックスなど全国的にファンが多いチームもあるのだが、普通は地元チームを応援する人の方が多い。だから、他チームにいる選手を応援する日本人を、地元ファンは奇異な目で見ていたのを覚えている。また、彼の活躍を好意的に受けとめていたわけではなかったようだ。 イチローさんは、2019年3月の引退会見で、「アメリカのファンに向けてのコメントを」と言う質問に対し、冒頭でこう答えた、「最初アメリカのファンの方々は厳しかったですよ。日本に帰れってしょっちゅう言われましたよ」。 イチローさんがデビューした2001年といえば、マリナーズは116勝と言う、球団史上最高であり1906年のシカゴ・カブスと並ぶMLBシーズン最多勝記録を打ち立てたほどに強く、マリナーズとの試合で地元チームの勝利を観る方が難しかった。 当時は、試合開始とともにイチローさんがヒットを放ちマリナーズが得点を重ね、一方、地元チームはチャンスを迎えてもイチローさんの好守備によって得点が阻まれるというそんな試合展開ばかりだったものだから、アメリカの野球ファンにしてみればイチローさんは“敵チームの嫌な奴”だったのだ。 イチローさんはそれから200本安打やオールスターゲームへの出場を果たし、トップクラスの選手として活躍していたのだが、アメリカのファンの間での評判は相変わらず厳しく、“敵チームの嫌な奴”のままだった。試合開始直後、1番打者のイチローさんが各チームのエース級からいきなりヒットを放つのだから、相手チームのファンは、試合でイチローさんを打ち取っただけでも盛り上がっていた。 そんなイチローさんが、アメリカ全土の野球ファンの間で受け入れられるようになったのは2004年のシーズンが大きなきっかけだったと考えている。イチローさんが、1920年にジョージ・シスラーが記録したMLBのシーズン最多記録(257本)を上回る歴代最多安打となる262本のヒットを打ったあの年だ。 この年のイチローさんは、シーズン終盤に差し掛かってから安打ペースを加速していった。アメリカのメディアも「大記録を作るのでは?」と、イチローさんのヒットを連日報道した。シーズンの勝敗が決まっていたタイミングだったのがよかったのかもしれない。 ※現役最後となったキャンプでのワンシーン。この“イチローポーズ”は全米でイチローさんの代名詞となった。2019年アリゾナで撮影。 先ほどのアメリカのファンに向けたコメントには続きがある。「結果を残した後の敬意というのは、手のひらを返すというか、行動で表す敬意は迫力があるという印象ですよね。認めてもらった後はすごく近くなるという印象で、ガッチリ関係ができあがる」。 そう、その年を境に、今までイチローさんを“敵チームの嫌な奴”として観ていたアメリカの野球ファンの見方が“記録を作る優秀な選手”に変わっていったのである。もちろん、地元チームのエース級投手からヒットを軽々と放つことを快く思う人はいなかったが、いつしか彼らも「イチローほどの選手だから仕方ない」と言う考え方に変わっていった。 そして、イチローさんはMLBで華麗にプレーすることが当たり前の存在になっていった。 イチローさんはそんな活躍を19年間に渡り私たちに魅せてくれていた。だから、2019年に引退を発表して当たり前の存在がなくなった時の喪失感は半端なかった。この状況はまるで今の我々の生活にも似ているのかもしれない。 ※現役最後となったキャンプでのワンシーン。華麗なボールは最後まで健在だった。2019年アリゾナで撮影。 今、私たちは生活の中で当たり前のことができなくなっている。外で運動することもなかなかできない。しかし、私はこの状況をイチローさんが経験したあることをヒントに、イチローさんの行動になぞらえて日々を過ごしている。 先ほど、イチローさんが19年間欠かさず当たり前にプレーを魅せてくれたと書いたが、実はそんな当たり前が出来なかったシーズンがあった。それは2018年、つい最近のことだ。2017年のオフにマイアミ・マーリンズからFAとなったイチローさんは、MLBのキャンプが始まった2月になっても所属チームがなかなか決まらなかった。一時はついに引退か、と騒がれていたが、その時も黙々と練習を続けていた。 私が思う、イチローさんの凄さはプレーだけではなく、「続ける」ということにある。 イチローさんが長年同じルーティンで生活を送っていたことはご存知だろうか。起床時間、食事の内容を全て翌日の試合時間から逆算してきっちり決めていたという。一見窮屈な生活に見えるが、彼のルーティンは“ノーストレスな状態”を作り出すために考案されたものだ。 睡眠が短くてストレスになったり、口に合わないものを食べてストレスを感じたり、体が不調になったりと、全てがそうならないように、あえて規則正しいリズムで過ごしていた。そして、この生活をなんと19年も送っているのだから、彼の「続けていく」ことへの凄さがわかるのではないだろうか。 さらに、イチローさんは引退会見でこんなことも語っている。「僕、我慢できないですね。我慢が苦手で楽なモノを重ねているイメージなんですよね。我慢の感覚がないんですけど」。 意外かもしれないが、イチローさんは自分が好きなものを好きなだけ食べている。私たちは自粛を強いられているが、決して我慢を強いられているわけではないので、イチローさんのように自分が好きな食べ物を食べてストレスを発散する、と言うのは良いかもしれない。 また、イチローさんは試合までにどれだけ準備、練習をしていたかを大事にしていた。さらにイチローさんといえば柔軟なプレーが有名であるが、それは彼がストレッチを欠かさずに行ってきたからこそ出来たことなのだと思う。打席前のストレッチ、守備位置についた時のストレッチ、また試合中もベンチの裏で専用のマシーンでカラダをほぐしていたのは有名な話だ。私も試合で、イチローさんが外野で手足をほぐしていた姿を何度も観ている。 ※イチローさんは打席前に必ずストレッチを行う。2019年アリゾナで撮影。 イチローさんが大きなケガをしなかったのも、常にカラダをほぐし、練習でカラダを作り、そしてストレスのない生活を重ね続けていたからなのだ。 私はスポーツが観れない、今の窮屈な日々を辛く苦しいものと感じている。しかし、試合に出れない選手たちはさらに辛く感じていることだろう。特に甲子園という、高校球児にとって夢の舞台が中止になった現実は、どれほどの精神的な心の痛みが生じるかは想像するだけでも辛い気持ちになる。 だけど、そんなときこそ、イチローさんのことを思い出して欲しい。 試合に出れない時も、引退後も、常に規則正しいリズムで準備を続けることを大事にしている。今、私たちが彼のライフスタイルにあやかって日々過ごせたとしたら、少しはイチローさんに近づけるのかもしれない。
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